合理性のワナ
2013年4月2日
ずいぶんと前に、
ヨーロッパの田舎の方を旅行した時に、
悩まされたことの一つに、
バスの乗り降りがありました...。
大きな街から乗る場合には、
きちんとしたバスターミナルがあることが多いので、
問題ないのですが、
田舎の方の、小さな街から乗る時には、
どこから乗るのか、いつ発着するのか、
どこにも表示されていなくて、
とても困りました…。
日本でならば、
当然のように、どこにでもある、
バス停のようなものが、
全然ありませんでした...。
あまりにもわからないので、
その辺を歩いている人にたずねると、
何もない道端につれていかれて、
ここで待っていろ、
というようなことを言われます…。
仕方なく、
そこで待っているのですが、
何もない、単なる道端で、しばらく、
一人で、ポツンと突っ立っていると、
本当にここにいていいのかと、
だんだんと不安になってきて、
そこを離れて、
また誰か、歩いている人に、
バスの乗り場をたずねます...。
すると、結局、
同じ場所に連れ戻されて、
ここにいろ、
というようなことを言われてしまいます…。
そんなことをしているうちに、
しばらくすると、
どこからともなく、
一人、また一人と、
人が現れてきました...。
そして、
何となく、
そろそろ揃ったかな、
というような感じになると、
それを見計らったように、
バスが現れました…。
その、
阿吽の呼吸とでもいうようなタイミングに、
何度も驚かされたのですが、
考えてみると、
多分、そのバスには、
いつも同じような顔ぶれの人たちだけが乗っていて、
いつ、どこへ来るのか、ということを、
皆がわかっているのだろうと思います...。
そして、そのように、
皆が、だいたいのことを把握しているので、
バスが停まる場所や、
バスが来る時間などを、
改めて表記する必要もない、
ということなのかな、と思いました...。
そして、私のように、
たまたま訪れて、
しかも、
一生に一度来るか来ないか、というような人が、
そのとき限りで、
少々の不便を感じたところで、
まあ、それこそ、一生に一度のことなので、
別に大した問題ではないでしょうし、
そもそも、
わからなければ、誰かに聞けばいいではないか、
という考え方なのだろうと思います...。
確かに、誰かにたずねると、
とても親切に、
その道端の一角に案内してくれましたし…。
ただ、まあ、そうであったとしても、
やはり、
乗る人と、乗せる人との約束として、
日本のバス停のように、
この場所に、何時頃に、バスが来る、
というようなことを表記しておいた方が、
何かと便利なのではないだろうか、
とも思わずにはいられませんでした...。
しかし、それも、
実際にそうしたバスに乗って、
いろいろと様子を見ているうちに、
大分印象が変わりました…。
話は、以下に続きます...。
http://blogs.dion.ne.jp/k_nakama/archives/11135833.html
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仲摩邦彦建築設計事務所
ひとつひとつ丁寧に取り組んでいきたい、と考えています。
建築は、建築主であるお客様や、様々な条件・環境等の、出会いや組み合わせにより生まれるものであり、それぞれが、その機会でこその個性的なものだと考えています。 「これしかない」と納得できるようなものを...