国会議事堂
2013年12月13日
現在の国会議事堂が完成したのは、
1936年(昭和11年)のことですが、
その計画の始まりは、
鹿鳴館などで知られる、
明治時代の欧化政策にまで遡ります…。
1886年(明治19年)、
時の外務大臣、井上馨は、
欧米列強と肩を並べ、
不平等条約を改正するために、
鹿鳴館をつくり、連日夜会を催し、
西洋式の生活様式を奨励するなどの、
いわゆる欧化政策をとっていました。
そして、
その総仕上げとでも言うべき、
国会議事堂、裁判所などを含む、
諸官庁建設計画にとりかかります。
内閣直属の臨時建築局を発足させ、
井上馨自らが、初代総裁に就任します。
そして、その建築家として、
ドイツで共同の建築事務所を開いていた、
ヘルマン・エンデとヴィルヘルム・ベックマンの、
エンデ&ベックマンを招聘し、
計画の作成を依頼します...。
この時に出来た計画案は、
パリやウィーンなどの、
先進諸国の実例を踏まえた上での、
当時の最先端をいく計画だったと言われています…。
ベックマンの日記には、
「おそらく完成までに100年を要するであろう。
しかしそれが重要なのだ」、
とあります…。
そして、
この計画は、鹿鳴館で、政府高官に披露され、
ベックマンの日記によると、
「計画は承認され、とくに議事堂案は絶賛され」た後、
天皇の御前での説明もなされたと言います…。
その後、
様々な変更が加えられながらも、
計画は、実際に、進んでいきます…。
しかし、
1887年(明治20年)、
不平等条約の改正交渉が不調となると、
事態は急変します。
外務大臣、井上馨は辞任に追い込まれ、
計画は大きく揺さぶられていきます…。
ベックマンは日記で、
「われわれのプランに、
かつての政府があらわした熱狂をエンデはもはや見出せなかった。
われわれの建物は浪費と見なされ、
全権を有する外国人による仕上げは反国民的なものとされた」、
と回想しています…。
翌年には、
エンデ&ベックマンの計画は廃棄され、
臨時建築局も、2年後には消滅します…。
ベックマンが100年後を見据えて描いた街路は、
結局、
一本も実現することなく、
壮麗なバロック都市東京は、幻と消えました…。
ただ、
不平等条約改正交渉にあたって、
法治国家日本をアピールするために、
特に重要と考えられた、
国会議事堂、裁判所、司法省については、
先に、
日本側と正式に建設契約を結んでいたのだそうです…。
計画全体が廃棄された時、
すでに、
裁判所と司法省の工事は始まっていました。
そして、
12名のドイツ人技師を招き、
技術習得のために20名の職人を、
ドイツに送ったという、
壮大なバロック様式の建築は、
別の人に引き継がれるかたちで、
完成します…。
裁判所の方は、その後、
最高裁判所新庁舎完成とともに
取り壊されましたが、
司法省の方は、
戦災で大きな被害を受けたものの、
改修され、
創建当時の姿に復元されてのこっています…。
法務省旧本館・赤れんが棟...。
まさに、夢のかけらです…。
一方、国会議事堂の方は...。
話は、以下に続きます...。
http://blogs.dion.ne.jp/k_nakama/archives/11389302.html
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仲摩邦彦建築設計事務所
ひとつひとつ丁寧に取り組んでいきたい、と考えています。
建築は、建築主であるお客様や、様々な条件・環境等の、出会いや組み合わせにより生まれるものであり、それぞれが、その機会でこその個性的なものだと考えています。 「これしかない」と納得できるようなものを...