信念と運命
2012年6月11日
最近、城山三郎『男子の本懐』を読みました。
とても有名な本なので、今更私が何か書くこともないのですが、第一次世界大戦と第二次世界大戦の間の時期に、当時の政治課題であった、「金解禁」に、文字通り、生命を賭けた、浜口雄幸と井上準之助のお話です。
すさまじい反発や抵抗にあっても、信念を貫いて、信じる政策を断行し、結果、二人とも、凶弾に倒れることになる、という、胸の熱くなるようなお話でした…。
その中では、そうした信念というものは、そこに至るまでの、長年の蓄積の上に培われてきたものであることが、静かに、描き出されていました...。
最近でも、「生命を賭ける」なんていう言葉を聞くことがありますが、そこでは、当然、果たして、そのような蓄積があるのか、ということが問われてしまうのではないか、と思います…。
結局、そのような言葉は、長年にわたって、暖め、深めてきた思いのようなものにだけに許されるものであり、そもそも、ちょっとした思いつきや、聞き齧りのようなことに、「生命を賭ける」ようなマネが出来るほど、人間は単純ではない、という、考えてみれば、当たり前のことに、改めて、気付かせてもらいました…。
それはそうと、別のことで、興味深く感じたのですが...。
総理大臣浜口雄幸が撃たれ、蔵相井上準之助が撃たれたことで、代わってなった総理大臣犬養毅、蔵相高橋是清の新内閣は、浜口・井上が文字通り「生命を賭けて」断行した「金解禁」を、撤回することになります…。
まあ、犬養、高橋らにしても、きっと、単に、そうした反発や抵抗に屈したわけではなく、これはこれで、彼らなりの信念に従ったのであろうとは思います…。
ただ、ご存知のように、その後、この犬養、高橋も、それぞれ、五・一五事件、二・二六事件で暗殺されてしまいます…。
こういうのをみると、当時の重要な政策課題について、それに賛成であろうと、反対であろうと、つまり、
個々が、どのような方向に、いかに信念を貫こうとも、どちらにしても、結局は、同じように暗殺されてしまい、そして、どちらにしても、結局は、時代は、ある一つの方向へと流れていってしまっているのではないか、といった、一種の無力感に襲われてしまいそうですね…。
要するに、時代の大きなうねりというか、ある種の運命のようなものの前では、個人の信念といったようなものには、何の意味もない、ということなのでしょうか…。
話は、以下に続きます...。
http://blogs.dion.ne.jp/k_nakama/archives/10718685.html
仲摩邦彦建築設計事務所
ひとつひとつ丁寧に取り組んでいきたい、と考えています。
建築は、建築主であるお客様や、様々な条件・環境等の、出会いや組み合わせにより生まれるものであり、それぞれが、その機会でこその個性的なものだと考えています。 「これしかない」と納得できるようなものを...