流れのデザイン

2014年4月22日

社会保険横浜中央病院…。





シンプルで、モダンな建築の前に、
少々、唐突な感じで現れる、
グニャリと曲がった、謎の物体…。

キノコのような、円盤のような…。

入口、車寄せの庇です…。

花が咲くように、上に向かって広がりながら、
滑らかにつながった、この造形は、
山田守の建築で、しばしば観ることができます…。

庇を支える構造体としては、
少々オーバーにも感じられる、
このかたちですが...。

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荒けずりな創意工夫

2014年4月21日

1907年(明治40年)に、

アメリカ人宣教師が建てたという、
マッケーレブ邸…。







説明のパンフレットによると、

この前年に、

子供が学齢期を迎えたことにより、
家族は帰国してしまい、

マッケーレブは、
その後、34年間、

単身ここで暮らしたのだそうです…。



大変質素な暮らしをしていたそうで、

畑仕事から外壁のペンキ塗り、
暖炉の薪割りまで、

すべて一人でこなしていたのだそうです…。



家の方も、同じように、
とても簡素なものですが、

南側の庭に面して、

サンルームとしても仕える広縁などもあり、

なかなか住み心地が良さそうな、

気持ちの良い家になっていました…。



説明によると、

内部は、

「カーペンターゴシック様式」を用いているのだそうです…。



「カーペンター(大工)ゴシック」って何なのかな、
と思い、調べてみたら...。

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復興の橋

2014年4月19日

1923年(大正12年)9月1日の関東大震災は、
帝都(東京)に計り知れない被害を与えました…。

その復興計画の策定と、事業の推進のために、
帝都復興院が創設され、
当時、副総理格の内務大臣であった、
後藤新平が、総裁を兼務することになります…。

この時の計画は、
焼失区域の全域を一括買収し、
新しい都市計画のもとに、新しい東京をつくり、
その後、それを払い下げまたは貸付ける、
というような、壮大なものでした…。

そして、これらは、
もしも、あの時、
原案通りに実現されていたら…、
などと、
今なお、何かあるたびに、語られたりするような、
すぐれたものであった、と言われていますが、
結局...。

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初期衝動

2014年4月18日

建築家、山田守の出発点は、
1920年(大正9年)、
東京帝国大学建築学科卒業直前に、
同級生5人と結成した、
日本初の建築運動、
「分離派建築会」でした…。

「建築は芸術である」と主張した、
この「分離派建築会」の作品は、
当時ドイツで流行していた、
曲面や曲線を多用する、
「表現主義」の影響を強く受けたものが多かったのですが、
中でも、山田守の作品は、
その「表現主義」的な特徴を代表するものでした…。

『建築家山田守作品集』の「作品リスト」によると、
現存する、一番古い山田守の建築は、
この「門司郵便局電話分室(現NTT門司電気通信レトロ館)」です…。

その「分離派建築会」から4年後の建築…。

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TU-Project

2014年4月17日

上下それぞれの階を、
少しだけズラすことによって生み出した、
屋外のテラスによって、
明るく開放的な家にすることを目指しました...。



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文学と建築

2014年4月16日

夏目漱石は、実は、
建築家になりたかったのだそうです…。

こんなことを書いています。

15、6歳の頃のこと…。

「何か好い仕事がありそうなものと考えて日を送って居るうちに、
 ふと建築のことに思い当った。
 建築ならば衣食住の一つで世の中になくて叶わぬのみか
 同時に立派な美術である。
 趣味があると共に必要なものである。
 で、私はいよいよそれにしようと決めた」…。

しかし、ご存知のように、そうはなりません…。
そのいきさつというのが…。



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小さな隠れ家

2014年4月15日

詩人、立原道造は、
建築家でもありました…。

高校(旧制)時代から、
堀辰雄らとの交流を始め、
詩を発表していた彼は、
大学の進学にあたり、
なぜか、
現在の東大建築学科へと、
進学します…。

在学中の彼は、
その詩を思わせるような、
詩的で、風土的な作品で、
その年の優秀な設計製図に与えられる奨励賞を、
3年連続で受賞するなどして、
当時から交流のあった、
一級下の、丹下健三にも、
とても大きな影響を与えた、
といわれています…。

大学を卒業した立原道造は、
当時の一流の建築設計事務所へ、
就職することになります…。

しかし、
就職後半年で、
早くも長期の病気欠勤をし、
結局、
わずか24歳で、
この世を去ってしまいました…。

実際の建築作品をのこすことなく…。





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記憶装置

2014年4月14日

旧日立航空機株式会社立川工場変電所…。

現地に立っている説明書きによると、
戦争中の、
機銃掃射や爆弾の炸裂によって、
このような凄まじい姿になったのだそうです…。

さらに、
戦後も、ほとんど修理の手を加えることなく、
1993年(平成5年)12月まで、
変電所として、
変わらず、使われ続けていた、
というから、びっくりです…。

今では、このあたり...。





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和洋折衷

2014年4月12日

元々は、
関東大震災の慰霊堂として、
1930年(昭和5年)に建てられたものですが、
後に、
東京大空襲の犠牲者も合わせて祀られ、
現在では、
東京都慰霊堂となった、この建築…。

慰霊堂という恒久的な施設としては、
耐火性の点から、
木造とするわけにはいかなかったようです…。

「鉄筋コンクリートによって
 日本旧来の宗教様式の建築を表現すべきである」…。

そうした主張通り、
本来木造でつくられる和風の様式を、
鉄筋コンクリートの技術を使って、つくっています…。

どう観ても、和風…。

しかし、中に入ってみると…。





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鮮やかな変身

2014年4月11日

横浜風の塔…。

元々、
地下街のための吸気や高架水槽としてあった、
既存の塔の改装…。

高さ21mの塔の表面に、
アクリルミラーを貼り、
さらに、その周囲を、
楕円状のパンチングメタルで覆っています…。

そして、内側に照明を設置し、
様々な光のパターンを描き出す、というもの…。

聞いてみると、
ただそれだけ、という感じの、
シンプルなデザイン…。

しかし…。





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仲摩邦彦建築設計事務所

プロフィール

仲摩邦彦建築設計事務所

ひとつひとつ丁寧に取り組んでいきたい、と考えています。

建築は、建築主であるお客様や、様々な条件・環境等の、出会いや組み合わせにより生まれるものであり、それぞれが、その機会でこその個性的なものだと考えています。 「これしかない」と納得できるようなものを...

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