白血病の治療について分かることがあれば‐1343‐
2017年1月14日
白血病の治療について分かることがあれば‐1343‐
今回は、ゲツモクではありませんが、少しでも友人の役に立てないかと思い書いてみます。
昨年末、中高の同窓会で会った友人から、同期のFacebookグループに投稿がありました。
年末の同窓会は本当に沢山の仲間に会えて楽しかったです。早くも4年後も楽しみにしています、○○先生を必ずお連れしたいと思います。
私ごとで申し訳ないですが、妻の白血病が3日前に再発しました。
○○医大の血液内科に、発病した14年前からお世話になっています。
これまで、2回の骨髄移植と強い抗ガン剤を繰り返し治療してきましたが、今回の再発後は主治医からは、もう完治させる明確な治療法は
無いと言われています。
私もこの間、白血病については相当勉強して過去の症例や最新の治療法、クスリの情報からも、主治医の話は間違っていないのが現実です。
体力が大幅に低下していますので、強い治療が出来ない状態です。
今の日本の西洋医学の限界かもしれません。昨晩、同級生の○○くんから、医者の話だけが100%ではないと、決して諦めるなと励ましを受けました。
もし、皆様で西洋医学、東洋医学、民間療法、食事療法にて、白血病の克服または、長期に渡る延命に関する情報がございましたら、教えて頂きたいと思います。
確かに完治は難しいかもしれませんが、娘が今、高校二年生です。せめて、卒業まで、または成人式、社会人になるまでは、本人も見届けたいとの思いが強いです。
皆様、お忙しい中で申し訳ないですが、直接的な治療法の情報または、この先生や医療機関に聞けばなどの情報がありましたらご協力のほど、お願いいたします。
現在高校2年生の娘さんは小学6年生の時、一度会っています。
建築家という仕事に興味を持ち、お父さんと一緒に当社に遊びに来てくれたのです。
真っすぐに私を見て、質問してくれた姿を覚えています。卒業、成人式、社会人という文字をみて、いても立ってもいられなくなりました。
私にそれらの知識はないので、完全に他力本願です。しかし、彼の純粋な言葉や思いは、他力の風を集めるのではと思い、ここに上げる許可をもらいました。
来週末までが大きな山場になるという返信もありました。
もし、何か情報がある方がおられたら、是非教えて頂きたいです。私が責任を持って彼に伝えます。
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建築家 守谷昌紀のゲツモク日記
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神様はそんなに冷たいだろうか‐1342‐
2017年1月12日
神様はそんなに冷たいだろうか‐1342‐
「関西の新年はえべっさんで始まる」ということで、今宮戎へ行ってきました。
高校の頃、西宮に住む友人が「えべっさんの本家は西宮だ」と言いました。
私は、「そんな訳ないやろ。商売の街と言えば大阪やで」と口論したことがあります。
しかし彼の言うとおり。総本社は西宮神社でした。
ですが、ロケーションといい、下品な感じといい(失礼!)、私は今宮戎が好きなのです。
朝10時頃行ったのですが、言っている間に入場制限がはじまりました。
惜しげもなく、紙幣が飛び交う感じがよし。
♪商売繁盛で笹持ってこい♪ ♪年のはじめのえべっさん♪
えべっさんが繁盛していなければ、まさか福を授けてくれることはなかろうと。
笹を売る側もなりふり構わず。この感じがなおよいのです。
裏に回って、ドラも叩いてきました。
えべっさんは耳が遠いので、ドラを鳴らすということ。
周辺もまさに書き入れどき。
これらも全て含めて年始のイベントです。
しかし、神頼みだけで上手く行くほど商売は甘くありません。
昨年の大晦日、「ザ・リーダー」という番組に、京セラの名誉会長、稲盛和夫さんが出演していました。
女性のインタビュアーから、若い人たちの働き方が変わってきていると思うが、稲盛さん世代からご覧になっていかがですか、という質問がありました。
一呼吸おいて、稲盛さんはこう答えました。
「確かに社会が豊かになってきて、優しくなって、そういう方向に流れていくのは必然かもしれません。
しかし時代がどう変わろうとも、物事を成し遂げる、素晴らしい人生をおくろうと思えば、楽な方向ではないなと思うんですね。
やっぱり一生懸命、誠心誠意努力を続けていくという。人知れず、苦労をいとわないで一所懸命努力をする。それは、どの時代でも変わらない真理だと思います。
今、頑張らすということも禁句ですし、頑張って病気でもしたら何にもならんという風潮が強いですけれども、どんな時代であれ、人生を生きていくには一生懸命でなければいかんのだと思っていますけれども」
稲盛さんは子供時代に結核を患い、医師を目指します。
しかし受験に失敗。鹿児島大学の工学部へ進学しました。
昭和30年。就職先がなかなか見つからず、京都で碍子(がいし-電線などに用いられる絶縁体)を作っている会社を、ようやく先生に紹介してもらったのです。
経営状態がわるく給料の遅配もあり、同期の4人は皆1年を待たずに辞めてしまいました。
稲盛さんもはじめは嘆いていましたが、それでは何も変わらないと研究開発に没頭しはじめます。
それが実を結び、世界で2例目というあるセラミック製品の生成に成功するのです。
番組内で「人生のターニングポイントは?」という質問もありました。
「やはり、先生のご紹介で京都にある焼き物を作っている会社にご紹介頂いたことでしょうか」と答えました。
大学時代には、これから成長産業になるであろう、石油化学などを専門とする高分子化学を専攻していました。
焼き物、セラミックは全く専門外で、就職が決まってから慌てて、卒業論文のテーマを変えたと聞きました。
それでも人生のターニングポイントが、その就職だったのです。
考え方がその人の人生を変える。これは稲盛さんの変わらぬ哲学ですし、この番組でも発言されていました。
稲盛さんは「神様が哀れにに思うくらい頑張れ」と言います。
そんな人に手を差し伸べてくれない程、神様は冷たいだろうかと。
世代によって、時代によって、真理が変わることはないと私も思います。
神頼みとは、こういったものを指すのだと、示唆してくれたのだと思うのです。
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「中庭のある無垢な珪藻土の家」‐3‐現場マジック
2017年1月11日
「中庭のある無垢な珪藻土の家」‐3‐現場マジック
↑公式ブログへリンクしています。
先週土曜日は、今年初めての現場打合せでした。
日差しは暖かですが、開始時の気温は3℃くらいだったでしょうか。
この時期は、寒さ対策が打合せの精度を左右します。
都心部に設計する住宅において、中庭はやはり有効です。
1月初めでも、深くまで直射が入っていました。
この日は、スイッチ、コンセント等の位置決め。
壁が出来上がる前に確定しなければならないのが建築現場の宿命です。
少しでも分かりやすくと、監督がテープでキッチンを再現してくれました。
洗面化粧台も造作になりそうで、高さ、平面位置と無限の選択肢があります。
寒空の下、2~3時間をお願いしていましたが、みっちり使い切って、何とか一通りを見て回りました。
ご夫妻が帰られたあと、監督、棟梁と細部を詰めてきました。
庇については、ああでもない、こうでもないと意見を出し合い、ようやく方針が見えてきました。
まずはチョークで描き、最後に墨入れならぬマジック入れ。
朝8時から、現場にいること8時間。
私達は寒かったと会社に戻りますが、棟梁はここからまたひと仕事なのです。
会議室では解決できないことが、現場では解決できます。
これまで何度もそういう場面を見てきましたし、皆が本気で知恵を出し合えば、解決できないことなど無いと思っています。
現場には、磁場のような力があるのです。
長く、しつこく、元気よく。
これが現場での私の流儀です。
文責:守谷 昌紀
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四世代が暮らす「豊中の家」‐3‐非効率な物創りに一生を捧ぐ
2017年1月10日
四世代が暮らす「豊中の家」‐3‐非効率な物創りに一生を捧ぐ
↑公式ブログへリンクしています。
「豊中の家」は、2車線歩道付きの道路に面しています。
街は建築の集合体ですから、建築とは街づくりの一端を担っていることになります。
建築家・槙文彦は「道は街の断面」と言いました。
美しい建築を創ることは、地域への貢献だと思っています。
美しいの解釈はそれぞれ違うもの。
「それぞれ」を、諦めの言葉にしないことが、物創りにおいて重要なことだとも思っています。
また、実物は1つしか創れないので、模型をつくり、様々な角度から検討するのです。
これは玄関からアプローチを見返したところ。
右に積んでいるのは素焼きレンガです。
実際はもう少し奥に積むのですが、透けかたを検討するため、仮に積んでくれました。
左下にあるのは、ガレージの床の試し塗りです。
インナーガレージの床材なので、発色を見るためにつくったもの。
LDKの間接照明とカーテンBOXも、実物大模型を作成してくれました。
構造体との隙間を検討するために、棟梁がつくってくれたものですが、実物大模型を「モックアップ」と言います。
設計事務所がこれを制作するのは難しいのです。
実物大を作ろうと思うと、それなりの強度のある材(例えば木や鉄)が必要になります。
加工する技術、専門の工具が必要になってきます。
私達がつくれるのは、スチレンボードというカッターで切れる、模型専用の材までなのです。
木を削る道具はノミ。
技術も、体重の乗せ方も、これはプロの技術です。
近ごろ、こうして実際に物をつくる人への敬意が、少なすぎると感じているのは私だけでしょうか。
量産できるものや、コピーできるシステムを構築するほうが、ビジネスとしては、展開が大きくなります。
そして、時代の寵児ともてはやされます。
その技術革新、ビジネスセンスは素晴らしいと思いますが、対極にあるのが建築だと思います。
頑丈であるということは「重い、硬い」が基本で、量産化、工場生産には向きません。
1つとして同じものがないので、飛行機のように大きな工場があればよい訳でもないのです。
こんな非効率な物創りに、一生を捧げる変わり者が集まるのが、建築の現場です。
頑固、ヘンコ、変わり者。
褒め言葉とは言えませんが、この時代において、それほど悪い言葉でもない気もします。
文責:守谷 昌紀。
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今日の屈辱を耐えて、明日のために生きろ‐1341‐
2017年1月10日
今日の屈辱を耐えて、明日のために生きろ‐1341‐
この連休、子供をどこにも連れて行けずで。
午前中、娘と堺にある「ビッグバン」という施設に行ってきました。
遊びをテーマに設立された大型児童館です。
名誉館長の松本零士が創作した「壮大な旅物語に沿った、ストーリー性のある非日常空間を演出」とあります。
UFOのようなフォルムをしているのは4階部分。
なかなか夢のある建物です。
完成は1999年。松本零士といえば、「銀河鉄道999」の作者です。そこに合わせて、竣工させたのかもしれません。
内部も、その世界観に基づいてつくられています。
自分で書いたイラストを取り込み、架空の世界で遊ばせるという「電子動物園」。
宇宙戦艦ヤマトの中にいるような気分になります。
かと思えば、大阪にいたという古代ワニのアスレッチックあり。
また、正面右に見えるガラスのタワーは、4層を貫いた巨大ジャングルジムになっていました。
小3の娘は満足していましたが、小1くらいまでが、一番楽しめるかもしれません。
3年ほど前ですが、松本零士のインタビューが新聞に載っていました。
彼の父は軍人で、太平洋戦争の際、陸軍士官学校の同期の中で、唯一生きて日本に戻ったそうです。
部下の多くを失い、自決したかったのではと思う。それでも、家族の為に生きて帰ってきてくれたことに感謝するとありました。
監督をつとめた「宇宙戦艦ヤマト」の沖田十三艦長はその父がモデルです。
「今日の屈辱を耐えて、明日のために生きろ。死ぬな古代」いうセリフも、そういう意味のことをしょっちゅう聞かされていたからこそ生まれたものでした。
生命を讃える考えが、全作品を貫く彼のテーマなのです。
施設の前に市民会館があるのか、成人式終わりの若者が集まっていました。
あでやかに着飾ったその姿は美しく、人生の中でも最も素晴らしい時間だと思います。
松本零士の父はいつもこう言っていたそうです。
「人は死ぬために生まれてくるのではない。生きるために生まれてくるのだ」
生きるということは、たやすいことではありません。日々屈辱ということはありませんが、それでも困難の連続です。
一人前とは、逃げないと決めること。大人の覚悟で頑張って欲しいと思います。
そう言う以上、先輩の大人が逃げていたのでは話になりませんが。
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当たり前にあるもの‐1340‐
2017年1月6日
当たり前にあるもの‐1340‐
当社は今日が仕事初めでした。
仕事初めは、昨日、今日が多かったでしょうか。
1月3日に京都へ行く用事があり、平等院に寄ってきました。快晴に雪なら金閣寺ですが、青空で無風の平等院も捨て難いのです。
平等院は1052年、関白藤原頼道によって創建されました。
今から千年近く前、頼道の考えた浄土をこの世に再現したのが鳳凰堂です。
水面に映る姿まで愛でた、日本人の美意識がここに結実しています。
軽やかに持ち上げられた、両翼は軽快、かつ繊細。
平安時代の人が見た時の驚きはいかばかりのものだったのか。
昨年末にスタッフが2人退職し、人出不足がゆえ現行スタッフは大晦日も、元日も出社してくれていました。
これは私がお願いしたものではありません。
しかし、私が若いスタッフを育成できなかったからに他ならず、本当に有り難いという気持ちしかありません。
昨年末の12月29日は、現場からの希望で、昨年最終の打合せがありました。
この時期の現場は、本当に寒いのです。
若い大工がベニヤのお盆に載せて、暖かいコーヒーを持ってきてくれました。それを棟梁にわたす姿が、何とも微笑ましく。
「若い人が育って、いいチームなってるね。ウチはなかなか……羨ましいよ」と言いました。
すると棟梁が「何言ってるんですか、ここにチームがあるじゃないですか」と。
「そうやね、こうやってやる気のある人が集まってくれることに感謝しないといけないね」と返したのです。
「当たり前にあるものほど、本当は一番大事」
これは、ダウンタウン松本のブレーンであり、構成作家・高須光聖の言葉です。
当たり前とは、自分が選び続けている現実ともいえます。また、人は知らない人を応援することはありません。
組織も個の集まり。まずは自分に近しい人を大切にするしかありません。
この単純な真理をどれだけ実行できるか。
今年一年、いや今後の人生、本気でやろうと思うのです。
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絵コンテ‐1307‐
2016年9月12日
絵コンテ‐1307‐
週末、夕食後は出来るだけ映画を観るようにしています。
一番人気の「名探偵コナン」は、全て観終わりました。「ドラえもん」の映画シリーズもほぼ完走。
いよいよ宮崎アニメに入りました。
満を持してと言えば良いのか 「風の谷のナウシカ」「天空の城ラピュタ」を2周続けて観ました。
ナウシカを解説する必要はありませんが、1984年に劇場公開された宮崎駿監督のアニメ映画です。
特典として絵コンテがついていました。
ここに載せてよいものか迷いましたが、載せてしまいます。
絵コンテは、映画の設計図なのでストーリー、キャラクターが皆に分かるよう描かれたものです。
初めて見たのですが、絵コンテの状態でここまでイメージが出来上がっているものかと、驚嘆しました。
世界最高峰のアニメーターで、ストーリーメーカーである宮崎が描くものなので、素晴らしいに違いないはずですが、ここまでのものとは。
ラピュタは1986年、スタジオジブリの初作品。
私の最も好きな映画のひとつです。
冒険、ドタバタ、使命感、友情と愛情。
ありとあらゆるものが、最高の物語として描かれていると思っています。
アニメは全て人の手によって創られるものなので、答えは絵コンテしかありません。
考えてみれば当たり前ですが「ここまで絵コンテ通りに創られているのか」と驚いたのです。
子供達も、圧倒的に楽しんでいました。
しかし残念なことが一つ。長男は、なぜが「ムスカ」や「バルス」を知っていました。
今時、YouTubeで公開されていると言います。彼はスマホを持っていないのですが、友人から聞いたと。
小学6年になり、当然色々なことを知って行きます。無菌培養などあり得ないので、こんなことはいくらでも起こるでしょう。
しかし、下の娘も楽しめて、初めて観るタイミングを計っていたのは事実です。当たり前ですが、初めては1回しかないのです。
楽しみにしている映画があったなら、予告編は目をそらします。近ごろは、感動、感激を少なくすることばかり起ると言えば、言い過ぎでしょうか。
知ることは可能性を広げます。
しかし、建築家、ミース・ファン・デル・ローエの50年以上前の言葉が更に迫力を増して聞こえてきます。
Less is more. (少なきことは豊かなこと)
動画ではない、宮崎の絵コンテのほうが美しいと言っても、間違いではない気がします。
改めて、その力量に感服するのです。
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日本全国、津々浦々‐1306‐
2016年9月12日
日本全国、津々浦々‐1306‐
家の近くには、いくつか田んぼが残ります。
ついこの間まではカエルの合唱だったのが、いつの間にか虫の音に。
夏の終わりに、台風が集中するのも温暖化の影響でしょうか。
釣りが好きで、時々奈良の山奥まで出掛けて行きます。
長らく行っていないのでそろそろ湖面が恋しいところ。
2011年の統計で、奈良県下北山村の人口は1039名。
下北山がどのくらい田舎かは(失礼!)判断が難しいのですが、当たり前のように宅急便は届きます。
NHKの「プロジェクトX」で、ヤマト運輸の回を観たのは10年以上前だったか。
私が小さい頃、例えば岡山の祖父から桃が送られてきたら、近くの貨物の駅まで、取りに行っていました。
「コストがかかる個人相手の輸送はリスクが高く不可能」が流通の常識でした。
しかし深刻な経営難に陥っていたヤマト運輸は、1976年(昭和51年)この宅急便に社運を賭けました。
日本全国、津々浦々に荷物を届けるという理念が、「戦後最大のサービス革命」の言葉通り、信じられないサービスを生んだのです。
民間企業なので、利益が出なければ会社は存続しません。
過疎の村で、都心部と同じような利益がでることはないでしょう。しかし、全国津々浦々という理念が、社員を鼓舞し、信用を集め、物を集め、他を圧倒してきました。
日本郵便も現在は民間会社ですが、メール便論争は記憶に新しいところ。親書は、日本郵便が独占していることを考えると、やはりアドバンテージがあるのです。
国という障壁さえも越え、完結させたこの宅急便というサービス。
普段は全く感謝が足りていませんが、下北山でクロネコのトラックを見て、改めて凄みを感じました。
過疎の村、または離島など、宅急便はどこまで届くのだろうかと考えます。民でありながら、よほど公の風格を感じるのです。
人類史上の進歩のほとんどは、不可能を受け入れなかった人々によって、達成された。
-ビル・ゲイツ-
困難こそが宝の山なのは誰が考えても明らか。
手本はいたるところで目にすることが出来ますし、手本しか残り続けないとも言えるのです。
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フィンランドの旅③ -人、街、番外編 -‐1303‐
2016年8月31日
フィンランドの旅③ -人、街、番外編 -‐1303‐
8月も最後の月曜日になりました。
少し時間が空きましたが、フィンランドで出会った人のことも少し書いておきたいと思います。
フィンランドの首都ヘルシンキは、港町であり、観光都市でもあります。人も優しく、旅行者には大変過ごしやすい街でした。
8月25日にフィンランド政府は「ベーシック・インカム(最低所得保障)」制度を導入すると発表しました。560ユーロ(約6万円)を一律に支給するという制度です。
北欧は社会福祉が充実していますが、それらは28%という高い税率によって支えられています。よって、物価は日本よりやや高め。
国鉄は、全て人と物が集まるヘルシンキの中央駅と結ばれています。
2日目には電車で3時間半、北東300kmにあるユバスキュラへ行きました。
アルヴァ・アアルト設計のタウンホールを見に行きましたが、ここは彼の出身地でもあります。
バックパックを背負ってウロウロしていると、日本人の青年が声を掛けてくれました。
ここには、アアルト本人が泊まる為に設計した部屋があるそうで「泊まっているので見て行きますか」と。
東京で大手組織事務所に勤める26歳の青年でした。
好感の持てる若者で、ラッキーだったなと思いながら、バス停で待っていると、80歳くらいのお婆さんが話しかけてきました。
「若い頃イギリスに留学していた。アアルトは街の誇りだ。フィンランドは戦争が多かった。日本は伝統のある興味深い国だ」などと言っているようです。
私は建築家でアアルトを尊敬していると言うと「バスが来るまで時間があるから、家に来てお茶を飲まないか」と言います。
バスの時刻を正確に把握しておらず、気長に待つつもりだったので迷いましたが、行ってみることにしました。
どうも、家ではなく知り合いの画家が個展を開いているので、お茶もあるから観に行かないか、と言っていたようです。
彼女は漢字がデザインされたスカーフをしていました。
旅行者の相手をしてくれるのは、お年寄りか子供だけ。こういったふれあいが旅に何かを付け加えてくれるのです。
何故か、多くのフィンランド人のお年寄りに見送られながらバスに乗り、次の目的地「夏の家」に到着しました。
20人くらいのツアーで、ガイドが説明をしてくれます。
イタリアで建築出版をしているという、黒いサングラスをしている女性も「アンドウ、クマ、イトオは素晴らしい」と言って、話しかけてくれました。
日本人も4名程おり、愛媛で設計をしているという女性と、現場監督を20年しているという女性2人組が参加していました。
私がここにくるまで25年掛かっているので、立派だなあと感心していたのです。
その日はタンペレという内陸の街に泊まり、翌朝ポリという西端にある街まで電車で1時間半。
「マイレア邸」を見る為です。
ポリで会ったおじさんの傘がなかなかお洒落。
前日、ユバスキュラで会った26歳の青年も同じガイドツアーに予約しており、大分から来たという女性2人組も電車で一緒になりました。
雨がひどいので、4人でタクシーをシェアすることにしたのです。
1時間のガイドツアーが終わり、バスでポリ駅に戻ったのも私達4人だけでした。
さあヘルシンキに帰ろうと切符売り場へ行くとクローズ。
前日、自動券売機で購入していた私は「こんな時はこの券売機で買えば……」と張り切って説明していると、何故かこちらもクローズ。
電車の出発が近付いてきたので、とにかく乗り込み、車掌からチケットを買うことになりました。
すると行きのチケットの倍以上の値段で、しかも席代は別と言います。それならと、食堂車で帰ることにしたのです。
この時、おそらく4人の中で一番英語力のある青年が、車掌といろいろ交渉をしてくれました。
仕事をしていて、若者を見た時に「立派だなあ」と思う機会は正直なかなかありません。
キャリアが違うので、当たり前なのですが、旅先で出会った私より若い世代の人は、積極的に英語で話しかけていました。
こういった姿を見ると、日本の若者も頼もしいなと感じるのです。
大分から来た女性は、1人が建築設計、1人は美容室の経営者。
あとはヘルシンキに帰るだけでしたが、初対面の人も居るのでコーヒーを頼むと、美容師の女性はビールを。
日本人の女性はいつも逞しいのですが、大分の女性は更に逞しいのでした。
最終日は、ヘルシンキ郊外にあるアアルトの仕事場、自邸を回りました。
ヘルシンキ郊外と言う事もあり、日本人の参加者が8人程いました。
私と同年代の男性が流暢な英語で質問しているので少し聞いてみると、大学で英語を教えているとのこと。
厚かましく、いくつかガイドに質問して貰ったのですが「専門家に解説して貰えて光栄だ」と喜んでくれたのです。
京都でデザインの仕事をしているという女性も参加していました。25、6歳でしょうか。
「北欧って、ホントお洒落ですよね。でもこれを日本に持ち帰っても浮いてしまうし、ビビッドなカラーでも、北欧の空気なら映えるんですよね」
彼女だけではなく、そんな話しは何度か聞きました。
日本の若者が逞しいと思う反面、日本に自信を持っていないことも少し気になります。
例えば建築においても、大阪府の人口にも満たないフィンランドの建築は、とても平均点が高いのです。
一般的な共同住宅も、しっかりとデザインされているものが殆どでした。
しかし、北欧が良くて、日本が駄目という訳ではありません。反対も同じです。
風土、民族性、経済状況、また法律などまで合わせて、文化は構築されていくものです。
一朝一夕に出来上がるものではないから、それを見に旅に出るのだと思うのです。
先週末、大分の女性から、お礼にとカボスのジュースが送られて来ました。
コーヒーの後、2杯程ビールをご馳走しただけなのに、申し訳ない気もしますが、有り難く受け取ることにしました。
24歳で初めて海外へでて、30歳の頃東南アジアを渡り歩いた時も、バックパック一つが私の旅のスタイルでした。
バックパッカーのバイブル、沢木耕太郎の「深夜特急」を20代前半に読んでからですが、それが私に合っていると思っていたのです。
良いホテルに泊まるより、美味しい食べ物を食べるより、少しでも色々な街を渡り歩きたい私にとって、バックパック1つの旅が性に合っていました。
しかし私も46歳。まだまだ元気なつもりですが、そろそろ、バックパックの重さが堪えるようになってきました。
一番の理由は体力的な問題ですが、50歳になった時、その姿が見れないかなと思うようにもなりました。
私のフィンランド行きを誰かに聞いて、大学時代の後輩から連絡がありました。
2日目に泊まった、タンペレで働いているそうです。
分かっていれば現地で会えたかもしれず残念ですが、仕事の舞台は世界なんだと意識させてくれます。
ヘルシンキは港町で、街中でもカモメがいます。
ウィーン、メキシコシティ、オスロ、アムステルダム……
行きたい街は沢山ありますが、ひとまずバックパックでの巨匠巡礼は今回で一区切りです。
新しい旅のスタイルを模索します。
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フィンランドの旅② -アアルトと近代・現代建築編 -‐1300‐
2016年8月21日
フィンランドの旅② -アアルトと近代・現代建築編 -‐1300‐
前回は8月12日(木)の夜、フィンランド第2の街、タンペレに着いたところまで書きました。
8月13日(金)の朝、タンペレを発ったのですが、駅前通りには前衛的な建築物がありました。
用途は分かりませんが、フィンランドにはこのような自由な空気があります。
髪の毛を、ピンク、グリーン、オレンジに染めている女性を沢山みました。
良いか悪いかは別にして、タトゥーや全身にピアスを付けている若者が、とても多いのです。
1時間半ほど電車に乗り、9時半頃ポリという街に到着しました。目的はアアルトの代表作、「マイレア邸」に行くため。
この日は残念ながらかなりの雨でした。
前日、セイナッツァロのタウンホールで会った、26歳の青年とも電車で再会しました。
また、大分から来たという女性2人も同じ電車で、タクシーをシェアすることにしたのです。
「夏の家」は名作に多い、「小さいな」という印象でした。「マイレア邸」は全く逆。豪邸でした。
1939年の完成なのでアアルト初期の代表作と言えます。
ガイドツアーを予約していたので、1時間程時間がありました。
本降りになってきたので、この有機的なフォルムをしたポーチで、旅や建築の話をしていたのです。
玄関の小窓は繊細なデザインです。
いよいよガイドツアー開始で、ドアが開きました。
玄関すぐにあったトップライトを撮りましたが、内部の撮影は不可とのこと。
マイレア邸は、現在も実際に暮らしており、人が居ない時だけ公開されているようです。
正直、とても残念でしたが、絵画も、カンディンスキー、ブラック、ミロと本物が飾られ、見せて貰えるだけで有り難いと思わなければなりません。
しかしやっぱり残念。
この日は、ヘルシンキまで3時間半掛けて電車で戻ったのです。
8月14日(土)も朝から雨で、昼からヘルシンキ市内を回りました。
市内西部にある、テンペリアウオキ教会は、岩をくりぬいて建てられて教会で「ロックチャーチ」と呼ばれます。
スオマライネン兄弟の設計によって、1969年に完成しました。
内部は圧巻です。
特別なしつらえなど無くても、岩の壁に囲まれ、全周から光が差し込めば、荘厳意外の言葉が見当たりません。
お椀のような屋根の周りが、360度トップライトになっているのです。
それを支えるのは、よく見ると薄い鉄筋コンクリートでした。
あまりの薄さに目を疑いましたが、近代建築の粋を集めた空間と言えるでしょう。
市内中心部にも、現代建築の教会があります。
カンピ礼拝堂は、設計事務所K2Sの設計で2012年に完成しました。
内壁、外壁とも木でできており、ロック・チャーチとは対極の素材です。
しかし、コンセプトは非常に似ています。
何かを付け加える訳でなく、徹底的に削ぎ落としたデザインです。
例えば、ミラノのドゥーモの装飾をみて、凄いと言わない人は居ません。反対にシンプライズされた建築には、様々な解釈が可能です。
日本でも国立競技場の騒動があったように、多くの批判も起り得ます。
2つの教会も、おそらく賛否両論があったでしょう。
その中で、こうして実現に至っていることに、この国のデザインに対するキャパシテーを感じるのです。
現在でも誕生100年という若い国で、北欧デザインの先駆者として活躍したのが、アルヴァ・アアルトに他ならないのです。
そのアアルトを巡る旅もいよいよ最終日になりました。
残すはアトリエと自邸だけ。郊外の高級住宅街まで、トラムで20分程でした。
1956年完成のアトリエが見えてきました。
私の心をもてあそぶように、曇ったり、晴れたりの一日でしたが、何とか日が差してくれました。
私にとっては一生に一回かもしれないアアルト巡礼なのです。
現在でも、アアルト基金の人達がこの製図室で働いていました。
当時はT定規。私にとっても懐かしい製図道具です。
そして、庭に対して湾曲した壁をもつアトリエは、羨みたくなるような空間でした。
「ここで働いたら、いい仕事ができるだろうな」と。
誇らしげにアアルトデザインの照明が。
木製の模型もありましたが、この大きなプロジェクトになると、アトリエ一杯の模型が作られたようです。
ペンキ補修をしているお姉さんはご愛敬として、円形の庭へ目線が誘われます。
所員と家庭的な付き合いを望んだアアルトは、この中庭を屋外劇場として様々な用途に使ったそうです。
そして最後は、1935年完成の自邸です。アトリエから歩いて15分程。
レンガの質感がすけるような白のペンキ仕上げは、アアルトの好んだ表現です。
アトリエが出来るまでは、ここが仕事場も兼ねていました。
アアルトが実際に、家族4人で暮らしたリビングです。
どう表現すれば良いのか、アアルトの優しさが溢れています。
建築、家具、照明等、彼の手に掛かれば、優しく、可愛げに、形を変えていきます。
しかし決して過剰ではないのです。
長く、暗い北欧の冬を楽しく過ごすため、家具はカラフルにデザインされました。
アルネ・ヤコブセンのアンツチェアやセブンチェアに代表されます。
また光源が目に入らず、食べ物が美味しく見え、かつ部屋が明るくなるようにデザインされがのがPHランプ。
ポールヘニングセンの作品です。共にデンマーク出身。
フィンランドはヨーロッパの北東端にあり、現在でも、国民は500万人程です。
様々な国に支配された歴史もあり、誤解を恐れず書けば、弱小国家と言えます。
その小国から、ヨーロッパ、アメリカと世界に影響を与えた、国民的デザイナーは皆の希望の星だったはずなのです。
アアルトは、建築においては世界最高レベルにあるMIT(マサチューセッツ工科大学)で教員を務めたことがあります。
しかし、最終的にはヘルシンキに戻ってきます。勝手な想像ですが、アメリカの空気、もっと言えばコマーシャリズムに合わなかったのではと思っています。
優しさ、フィンランド、キャンティを愛したのがアアルト。とにかく空間が暖かいのです。
この旅で一番感じたのは、目だった産業がある訳ではない、フィンランドのデザインは、日本の本気度をはるかに上回るものだと言う事です。
もし、日本経済の裏付けがなかったとしたら、日本人建築家がここまで活躍できたのだろうかとも思うのです。
そして、私がアアルトの空間が本当に好きなのだと確認できました。好きすぎて、最長の日記になってしまいましたが。
◇一級建築士事務所 アトリエ m◇
建築家 守谷昌紀のゲツモク日記
アトリエmの現場日記
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株式会社一級建築士事務所アトリエm
夢は必ず実現する、してみせる。
一級建築士 守谷 昌紀 (モリタニ マサキ) 1970年 大阪市平野区生れ 1989年 私立高槻高校卒業 1994年 近畿大学理工学部建築学科卒業 1996年 設計事務所勤務後 アトリエmを設立 2015年 株式会...