話が単純すぎる...。

2012年10月5日

近頃、
「決められる政治を」、
なんていう話をよく聞きます…。

その方法として、有力なのが、
物事の決定の仕組みをシンプルにして、
トップリーダーに強い権限を与え、
ある種の「独裁」に近づけることで、
素早く状況に対応して、決断していこう、
ということみたいですね…。

確かに、
素早く決定して、手を打っていくことは、
大事なことなのでしょうから、
いいのですが、
一方で、
国のような大きくて、複雑なものの、決定の仕組みを、
そのように、あまりにも単純にしていくということは、
どんなものなのだろう、と思ったりもします…。

建築などでも、
小さなものであれば、
明確なイメージを持った人間が、
一人で決めていく方がいい場合もあるかもしれないのですが、
規模がどんどんと大きくなっていった場合、
一人の人間にそのようなことが可能なのかどうか、
ちょっと難しいところもあるように思います。

まして、
もっと大きな、
都市計画のようなことになってくると、
一人の人が「独裁」的に決めることには、
かえって弊害のようなことの方が多いのではないか、
などと思ったりします…。

また、
建築の場合には、
つくっていく過程で、
最終的な完成形のようなものを、
割とハッキリと思い描くことになるので、
規模の大小にかかわらず、
多くの人で、
そのイメージを明確に共有しやすいように思います。
そのため、
かなりシンプルな決定の仕組みでも、
不可能ではないのかもしれないのですが、
都市や国家などは、
ハッキリとした完成形、などというものがあるのかどうか、
なんとなくモヤモヤとしていて、
多くの人で、そのイメージを共有するのも難しく、
そんな中で、
少数の人が「独裁」的に決めていく、というのは、
あまりにも乱暴な気もしてしまいます…。

先日、
『ウェブ人間論』という本を読んでいたら、
作家の平野啓一郎さんが、
こんな指摘をしていました…。

「九十年代後半以降のネット検索時代を経ると」、
「情報なんてものは」、
「一部の「専門家」だけじゃなくて、誰でもがアクセスできるし、
そもそもがひとりの手に負えないほど膨大で、
結局は、
選択的に自分の関心のある世界のものだけに手を伸ばすか、
大雑把な全体の把握に努めるくらいのことしかできない
という認識が一般化したと思います」...。

確かにそうだよなあ、と思ったのですが、
この話をあてはめてみると、
国のトップリーダーに大きな権限を与えて、
「独裁」的に、多くのことを決定する、というのは、
確かに、効率はいいのでしょうが、
そもそも、その「独裁」者は、
「自分の関心のある世界のものだけ」しか知らない人か、
あるいは、
「大雑把に全体の把握」をしているだけの人か、
ということですよね...。

そのような人が、
「効率よく」決定したことって、一体何なのでしょうね…。

本来複雑なものを、
あまりにもシンプルな仕組みで、
効率よくつくってしまうことに、
本当にいいのかなあ、と疑問を感じてしまったりもします…。

まあ、
政治の話は、全然詳しくありませんので、
それでは、どうやって決めればいいのか、代案を出せ、
などと詰め寄られても困りますので、
ちょっと外野からヤジを飛ばすだけにして、
早々に話題を変えることにします…。

こういった議論を聞いていて、
何となく思い出したのが、
建築家クリストファー・アレグザンダーが、
1965年に発表した、
大変有名かつ重要な論文(だと思う)、
『都市はツリーではない』
です…。

話は、以下に続きます...。
http://blogs.dion.ne.jp/k_nakama/archives/10937901.html (続きを読む)

よく、映画の、
撮影現場の雰囲気を語るインタビューなどで、
ベテランの俳優さんが、
多くのアドリブで、現場を盛り上げた、
なんていう話を聞きます。

そういった話を聞くと、
なぜか、勝手に、
監督や脚本家に感情移入してしまい、
嫌だなあ、と思ってしまいます…。

単なる個人的な好みなのですが、
作品世界から、変に浮き上がってしまっているような、
オーバーで、不自然に見える「怪演」をする、
いわゆる個性派俳優さんが苦手だというせいかもしれません...。

でも、多分、
そのように思う、一番大きな理由は、
自分の仕事に引きつけて考えてしまうからではないか、
と思います…。

折角いろいろと考えて描いた図面を、
現場のノリで、
自由に変えてしまわれたら、
たまらないなあ、と思ってしまうからです…。

映画などでは、
監督のイメージや、元々の脚本は、
どこまでの自由な解釈を許容するのでしょうかね…。

ただ、
建築の現場でも、
このようにしたらどうだろう、というような提案が、
現場から出てくることは大歓迎です。
そして、
それを受けて、話し合いながら、
よりよいものにしていく、
というのがあるべき姿のような気がします。

そういったことから、想像して、
映画などの場合でも、
話し合った末に、
その結果として、
自由なアドリブの応酬をしてみたり、
ああした「怪演」をしてみたりしているのでしょうね、
きっと…。

もっとも、
映画や建築の現場は、まだ、
最初に構想した人と、
現場で実際に行う人とが、
話し合う場が存在するので、
問題は少ないのかもしれません...。

そのような場が存在しない場合が、
問題になるのでしょうね…。

ネットの記事で、
指揮者の西本智実さんのインタビューを読んでいたら、
こんな話にぶつかりました。

話は、以下に続きます...。
http://blogs.dion.ne.jp/k_nakama/archives/10927395.html (続きを読む)

常に、アンチ...。

2012年9月18日

今年の4月頃のことですが、
イギリスのガーディアン紙が発表した、
『世界で最も醜い建築物』という企画で、
イタリア・ミラノの、
「トッレ・ヴェラスカ(ヴェラスカ塔)」が選ばれた、
というニュースを読みました…。

なぜこれが1位なのか、
理由までは、
元のガーディアン紙の記事まで読んだわけではないので、
よくわからないのですが、
ネット上の紹介記事についているコメントなどを読んだ感じでは、
その個性的な外観が、
歴史的な街並に合わない、といったようなことが、
その理由のようでした…。


かなり昔のことになりますが、
私も、
ミラノを旅行したことがあります。

その時に、
この「ヴェラスカ塔」を見たのですが、
個人的には、
結構いいなと思いました…。

なぜこれが、
「世界で最も醜い建築物」なのか...。

話は、以下に続きます...。
http://blogs.dion.ne.jp/k_nakama/archives/10918115.html (続きを読む)

先日、新聞で、
脚本家の岡田利規さんのエッセイを読みました。

大変面白かったので、
少し紹介させていただこうと思います。

このエッセイは、
1ヶ月ごとに、書く人が交代しているみたいで、
4回で完結ということになっているようです。
今月は、今のところ、
3回目まで、話が進んでいます。

私は、演劇については、全くの無知で、
この岡田利規さんという方も、
失礼ながら、知らなかったのですが、
ここまでの話を、乱暴に要約すると、
こんな感じの話です…。

この岡田さんは、
いわゆる「現代演劇」とか、
「実験的な演劇」というのをやっているそうなのですが、
これを、ご本人は、「ヘンテコな演劇」と呼んでいます。

そして、
なぜ自分が「ヘンテコな演劇」をするようになったのか、
ということを、振り返り、分析をしています。

そもそも、最初から、
そういった「ヘンテコ」なものを目指していたわけではなく、
むしろ、
「普通」ということに関心を持っていた、と言っています…。

つまり、
「普通」とは何だろう、と考え続けていくなかで、
気付くと、いつのまにか、
「ヘンテコな演劇」をつくっていた、
とのことです…。

例えば、
「普通の話し方に限りなく近いセリフをかきたいものだ」と考えた末に、
こんなセリフに辿り着いたのだそうです…。

「…大通りに一応、面しているところにあるライブハウスがあってなんかカナダから来たかなーりマイナーなバンドのその日はあれがあって、なんででもそんなのを見に行ってたのかって言うとっていうのはすっごい、でもそのライブよかったんですよすごい、よかったなーっていう、すごいいいライブで…」

岡田さんは、このセリフを、
「普通」だと考えた、といいます…。

「だって私たちは普段、
こんなふうに要領を得ない、冗長な話し方をしていますから」...。

また、
セリフだけではなく、
俳優の演技も「ヘンテコ」なのだそうです…。

それは、
「手足を意味もなくブラブラ、ダラダラさせている。
一種のダンスみたいに見える」ようなものなのだそうです。

「しかし、これも、
『普通』ということを捉えようとしたことの予期せぬ結果であって、
なにも私たちは、
ヘンテコな動きをすることを目指してそうした身ぶりをやるようになったわけではないのです」。

つまり、
「ちょっと観察してみると、日常において人は、案外と意味のない動きをしているものです」。

そして、
そのような「普通」のものが、
舞台上に乗せられると、
ただそれだけのことなのに、
なぜか「ヘンテコ」なものに見えてくる、
それが、とても面白い…。

そんなようなお話でした…。

私は、演劇に関して、何の知識もないのですが、
自分の知っている方面に引きつけるようなかたちで理解し、
大変共感しました…。

というのも、
よく思っていたことがあって、
それは、
考えれば考えるほど、
「普通」のものは、「普通」ではなくなってきて、
むしろ「ヘンテコ」なものになってくる、
ということです…。

話は、以下に続きます...。
http://blogs.dion.ne.jp/k_nakama/archives/10631588.html (続きを読む)

ルー・リードというミュージシャンの作品が、
好きです…。

多分、この人のだけ、
ほとんど全てのCDを持っています。

かなり以前のことにはなりますが、
来日公演にも行ったことがあります。

本人は、あるインタビューで、
「ぼくがやりたいのは
『カラマーゾフの兄弟』と同じレヴェルにあるロックンロールなんだ」と、
なんともカッコいいことを語っているのですが、
確かに、そんな感じで、
文学的な歌詞を、つぶやくような低音で歌うようなスタイルが、
とてもカッコよくて、
気に入っています…。

そんなことで、
オリジナル・アルバムとライヴ・アルバム、
合わせて50枚近くのCDを持っています。

そして、ファンゆえの贔屓目で、
どれも、
ハズレ無しの、名作ぞろいではないか、
と思っています…。

ただ、
その中の1枚に、
有名な、
「最大の失敗作」とか、
「ロック史上、いちばん嫌われ続けている問題作」、
などと呼ばれて、
大層、悪名高い作品があります...。

それが、
『METAL  MACHINE  MUSIC(メタル・マシーン・ミュージック)』です。

この作品、何がすごいといって、
もともとLP2毎組で出されていたのですが、
その全4面、
16分ずつ、
合計1時間ぐらいに渡って、
延々と、
ギターの音を加工したようなノイズが鳴り続けることです…。

そして、時間が来ると、
何のオチもなく、プツッと終わってしまいます…。

文学的な歌があるわけでもなく、
メロディがあるわけでもなく、
ただただ、ひたすらに、ノイズです…。

1975年に発表された当時は、
相当な批判があったそうで、
ルー・リード本人が、
「騙されたと思った人も多いだろう。
その気持ちは理解できるし、それについてはあやまりたいと思っている」、
という「謝罪声明」を出したとも言われています…。

もっとも、
後のインタビューでは、
「あやまってなんかいない」、
「あの声明にしても、ぼくが喋ったのとはニュアンスが違ってる。
レコード会社が出したわび状は、レコード店に向けたものだ」とも、
語っていますが…。

その後は、
「失敗作」と言われることに反論し続けています…。

あまりにも叩かれるためか、
「『メタル・マシーン・ミュージック』以外の自分のアルバムはどれも好きじゃない。
ときどき眠るために聴いたりする程度だ。
なんで他のは好きじゃないかって?
それは『メタル・マシーン・ミュージック』じゃないからだ」…、
なんて、
ほとんど意地になっているのではないか、
というような面白いことも話したりしています…。

この作品、実際に聴いてみて、どうかというと、
さすがに、私も、
何が何やら、よくわかりません…。

多分、
ルー・リードのアルバムでなければ、
買わなかったと思います…。

現代音楽などでは、
もしかしたら、こんな感じのものもあるのかもしれないのですが、
その音楽的な価値などは、
もちろん、
私などには、とても理解することが出来ませんでした…。

そんなことで、
このCDを買ってはみたものの、
一度聴いた後は、
もう二度と聴かなくなってしまった…、
かというと、
実は、
意外とそうでもなくて、
かなりの回数、聴いています…。

いや、
聴いているというのは正確ではなくて、
かなりの回数、このCDをかけています...。

つまり、
かけてはいますが、聴いているのかいないのか、
よくわかりません…。

もしも、このCDを、
黙って座って聴きなさい、と言われると、
かなりの拷問のような気がするのですが、
仕事中の、ある種の作業の際には、
実は、
結構はまるような気がしています…。

というのも、
仕事中、考え事をしている時に、
なんとなく音楽が邪魔になる時があるのですが、
そんな時に、割と頻繁に、
このCDをかけたりしています…。

うまく表現できなくて、
妙な言い方になってしまうのですが、
「何も聴きたくない時に、ちょうどいい作品」、
という感じがしています…。

何も聴きたくなければ、
何も聴かなければいいではないか、
と言われそうなのですが、
そういうこととは、
なんとなく、ちょっと違うんですよね…。

結果的に、何の音も聴こえてこない、という状態と、
積極的に、何も聴かない、ということとは、
何となく、微妙に違う感じがあるような気がしています…。

「何も聴かない」ということを「聴く」、
という感じでしょうか…。

つまり、
本当に「何も聴かない」という状態をつくり出すためには、
音楽を消すということだけでは、
実は十分ではなくて、
それなりの「操作」が必要になるような感じがしています…。

なぜ、そんな、
『メタル・マシーン・ミュージック』のことを、
思い出したかというと...。

話は、以下に続きます...。
http://blogs.dion.ne.jp/k_nakama/archives/10900241.html (続きを読む)

なんとなく頭にのこっていて、
時々ふと思い出し、またすぐに忘れてしまうことがあります。

今、偶々思い出したので、
忘れてしまう前に、書いてしまおうと思います…。

それは、
かなり前のことなのですが、
ギタリストのパット・メセニーが、
『オーケストリオン』というアルバムを出し、
来日公演を行った時の、雑誌の紹介記事です…。

パット・メセニーが、
ジャズ系のギタリストであることは知っていましたが、
ちょっと耳にしたことがあるぐらいで、
特別にファンというわけでもありません…。
それどころか、
この『オーケストリオン』というアルバムも、
まだ聴いていません…。

それにもかかわらず、
なぜ、その記事が頭にのこっているかというと、
それが、
とても変わった、不思議なものだったからです...。

そもそも、
この「オーケストリオン」というのは、
「本物のオーケストラ楽器を自動で鳴らす装置」のことなのだそうです。

多くの楽器を自動で鳴らす、
大掛かりな、自動演奏機械、
といった感じのもののようです...。

19世紀の前半から、
20世紀初頭にかけて使われていたのですが、
19世紀後半にレコードが生まれる等、再生機器が進歩して、
そのような大掛かりな音楽機械は、
廃れていくことになったのだそうです。

音楽家でもある祖父が、
この「オーケストリオン」に近いものを使っていて、
パット・メセニー自身も、幼い頃に夢中になっていたのですが、
その後、いつのまにか離れてしまっていたのだそうです…。

ところが、あるとき、
日本のホテルで、自動演奏するピアノを見て驚いたといいます…。

それは、あくまでも「自動演奏するピアノ」でしたが、
そのような幼い頃の記憶が蘇ったのか、
別の楽器、別の音色がまじりあう、文字とおりの機械によるオーケストラ、
「オーケストリオン」の実現を目指した、とのことです…。

そういったことで出来上がった「オーケストリオン」は、
ピアノ、マリンバ、ヴィブラフォン、ベル、太鼓類、ギター等に、
専用のアタッチメントと動力を取り付けることで、
それぞれの楽器に演奏者が付いていなくても、
一斉に鳴らすことが出来るというものだそうです。

多分、
コンピュータでコントロールされているのだとは思うのですが、
機械が演奏しているといっても、
音そのものは生の楽器による、というところが、
古くもあり、新しくもあり、
面白いところなのだろうと思います。

で、
その巨大な演奏機械を持って、
パット・メセニーは来日コンサートを行ったわけです。
そして、
その雑誌の紹介記事に、
その時のステージの写真が載っていたのですが、
これが、とても不思議なもので、
そのために、ずっと頭の片隅にのこっていました…。

ステージには、
ピアノ、ヴィブラフォン、ギター等が並んでいるのですが、
その背後には、大きな棚のようなものがあり、
そこには、打楽器類が収まっています…。

それは、
ドラムスのように、セットになっているのではなく、
タムはタム、シンバルはシンバル、といった具合に、
それぞれの部分がバラバラにされて、
棚の中に配列されていました…。

確かに、
一人のドラマーが演奏するわけではありませんので、
叩きやすいように並べてセットにする必要はありません。

その棚が、どのようなルールで並んでいるのかわかりませんが、
少なくとも、
これまでの、一人の人が演奏するための配列とは別のルールによって、
並べられているのだろうと思います…。

それを見て、
ドラムスは、
人が演奏するからこそ、あの形をしているのであって、
人が演奏しないのであれば、あの形である必要はないという、
考えてみれば、当たり前のことに、
改めて気付かせてもらいました…。

このステージでは、
ピアノ等は、そのままの形で置かれていましたが、
もっと突き詰めれば、
これだって、人が演奏するわけではありませんので、
別の形があり得るということですよね…。

バラバラにされた、様々な打楽器類の並ぶ、大きな棚の前で、
一人でギターを弾いているパット・メセニーの写真が、
なんとも不思議だったので、印象深く、
頭にのこっていました…。

そして、
ルールというものは、
あくまでも、何か一つの目的のためのものであって、
別の方向から見た時にも、常に有効であるとは限らない、
ということを、改めて見せてもらったような気がしました...。

話は、以下に続きます...。
http://blogs.dion.ne.jp/k_nakama/archives/10643577.html (続きを読む)

スペイン、バルセロナで、
現在も工事が続く、
サグラダ・ファミリア教会...。

その計画の概要をみると、
北側に、
7つの礼拝堂などを配した後陣があり、
その他の東南西の三面には、
「ファサード」と呼ばれる、
大きな玄関(「門」などとも訳されます)が配置されています。

その3つの「ファサード」には、
それぞれに、イエス・キリストのストーリーが表現されていて、
東側が、イエスの誕生を表現している、「生誕のファサード」、
南側が、イエスの栄光を表現している、「栄光のファサード」、
西側が、イエスの受難を表現している、「受難のファサード」、
という具合になっています。

そして、実は、
設計者のガウディは、
この3つの「ファサード」のうち、
東側の、「生誕のファサード」がほぼ出来たところで、
市電にはねられて、亡くなってしまいます…。

「生誕のファサード」だけは、
彼の弟子たちが、
彼の死の直後に完成させたそうですが、
それから、すぐに、
スペイン内戦によって、中断となってしまいます…。


ガウディは、
この建築の詳細な設計図をのこしておらず、
さらに、内戦で、
わずかにのこった資料もなくなってしまい、
のこっていた模型もバラバラの破片になってしまったのだそうです…。

内戦後に再開された工事は、
このバラバラになった模型を復元したり、
ほんのわずかにのこった資料から、
推測したりしながらの仕事になってしまったこともあり、
果たして完成するのだろうか、といわれるほどに、
ゆっくりゆっくりと進んでいくことになります…。

そして、数十年...。

ガウディ生前にほぼ完成していた、
東側の「生誕のファサード」に続く、
西側の「受難のファサード」が、
ついに完成します...。


私は、
一度だけ、バルセロナを旅行したことがあるのですが、
ちょうど、その頃、
「受難のファサード」が完成したばかりでした...。

そのようないきさつで完成した、
「受難のファサード」を観て、
私はとても驚いたのですが、
その時の話を…。

話は、以下に続きます...。
http://blogs.dion.ne.jp/k_nakama/archives/10885661.html (続きを読む)

スペイン、バルセロナにある、
サグラダ・ファミリア教会は、
工事が始まってから100年以上経過しても、
完成にはほど遠い状態であったことから、
完成までは、あと100年かかる、とか、
いや200年以上かかる、とか、
そもそも完成しないのではないか、等々、
いろいろなことが言われていましたが、
最近のニュースによると、
近頃は、工事が急ピッチで進んでいるようで、
設計者ガウディの没後100年にあたる、
2026年には完成するのではないか、
と言われているみたいです…。

工事を急ぐことには、賛否両論あるようですが、
まあ、やはり、
どのような姿になるのか、
楽しみでもありますね...。

この教会は、
その計画の概要をみてみると、
北側に、7つの礼拝堂などを配した後陣があり、
その他の東南西の三面は、
「ファサード」と呼ばれる、
大きな玄関(「門」などとも訳されます)となっています。

その3つの「ファサード」には、
それぞれに、
イエス・キリストのストーリーが表現されていて、
東側が、
イエスの誕生を表現している、「生誕のファサード」、
南側が、
イエスの栄光を表現している、「栄光のファサード」、
西側が、
イエスの受難を表現している、「受難のファサード」、
という具合になっています。

実は、
設計者のガウディは、
この3つの「ファサード」のうち、
東側の「生誕のファサード」がほぼ出来たところで、
市電にはねられて、亡くなってしまいます…。

ガウディは、
この建築の詳細な設計図を、
ほとんどのこしていませんでした...。

さらに、
その後のスペイン内戦で、
わずかにのこった資料も、
そのほとんどがなくなってしまい、
のこっていた模型も、
バラバラの破片になってしまったのだそうです…。

現在の作業は、
このバラバラになった模型を復元したり、
ほんのわずかにのこった資料から推測したりしながら、
行っているみたいです…。

しかし、
こうなってくると、
ガウディの構想通りのものになっているのか、
というのは、
かなり疑わしいところですよね…。

ただ、
ヨーロッパの、過去の大聖堂などでは、
建設に何百年という時間がかかるというのは、
結構よくある話です...。

そして、そういった場合には、
当然、
設計者も、
別の人に、代々受け継がれていったでしょうから、
このサグラダ・ファミリア教会のいきさつも、
歴史的にみれば、
それほど特殊なことではないのかもしれませんね…。

しかし、
それならば、
なぜ、この建築が、
ずっと、驚きの眼で見られているのか...。

話は、以下に続きます...。
http://blogs.dion.ne.jp/k_nakama/archives/10869891.html (続きを読む)

私の子供の頃は、まだブルース・リー・ブームが残っていたのか、空手が割と流行っていました...。

近所に空手の道場があったり、学校の体育館を借りて、空手教室が行われていたりして、友人の中にも、空手を習っている人が結構いました…。

そんなせいもあって、空手の関係者が、割とたくさんいたのでしょうか、近所の原っぱで野球などをして遊んでいると、空手の先生であったおじさんが、何故か参加してきたりしたことがありました…。

そんなある日、野球に飽きたのか、その先生を囲んで、地べたに座り、おしゃべりをした時のことが、とても印象にのこっています…。

その機会に、私たちの仲間内で、大きな議論を呼んでいた、ある重要な問題を、その空手の先生にぶつけた時のことです…。

それは、空手、柔道、剣道など、武道にはいろいろとありますが、本当は、何が一番強いのか、という大問題です…。

当時、空手を習っている人もたくさんいたのですが、近所の警察署が道場で教室を開いていたせいもあり、剣道や柔道をやっている子供もたくさんいました。

私も、そこで、剣道を習っていました…。

当時は、アントニオ猪木の、「異種格闘技戦」が大変な話題になっていて、空手家の、「熊殺し」ウィリー・ウィリアムスが、猪木をギリギリまで追い込んだのを、テレビで観ていましたので、その空手の先生が、当然、空手最強を唱えるのではないか、と思っていました…。

ところが、その空手の先生の意見は、こういうものでした...。

話は、以下に続きます...。
http://blogs.dion.ne.jp/k_nakama/archives/10856655.html (続きを読む)

内か外か

2012年7月27日

子供の頃、『奥さまは魔女』という、アメリカのテレビドラマを観ました。

夕方の時間のテレビ番組は、最近では、なぜか、ほとんどがニュース番組ばかりになっていますが、こうした番組の編成には、時代の流行というのがあるのでしょうか…。

その当時は、これまたなぜか、子供向けのアニメやドラマの再放送を繰り返しやっていました。

そのせいで、リアルタイムで観ることが出来なかったような番組を、小学生ぐらいの頃に、かなり大量に観ることになりました…。

『奥さまは魔女』は、そうした再放送で、何度も観ました…。

子供が観ても、まあまあ面白かったのと、吹き替えドラマであるための不自然な感じと、海外のドラマであることからくる違和感によって、とても印象に残っています…。

自分の生活とはかなり違っていたことで感じた違和感は、いろいろとあったのですが、例えば、こんなのがありました…。

主な舞台になっている、サマンサとダーリンの家に、度々、ダーリンの会社の上司であるラリーが訪れます。

ラリーは、いつも、呼び鈴を鳴らし、ドアを開けてもらうと、玄関に留まることなく、そのまま土足で、家の奥の、リビングルームまで、ズカズカと入ってきてしまいます…。

このラリーという人は、ちょっと口うるさくて、せっかちな感じのあるおじさんなのですが、別にこの人に限らず、この家を訪れる人は皆、当然のように、リビングルームまで、どんどんと入ってきてしまいます…。

土足であることについては、向こうは室内でも靴を脱がないと聞いていましたから、まあ、理解していましたが、何も言われる前から、その家の奥深くまで、どんどんと入っていくというのは、やはりなかなかの違和感がありました…。

その家の住人にしてみれば、いくら自らドアを開けた知人とはいえ、このように、家の中まで頻繁に入って来られてしまうようでは、部屋の中をかなりキレイにしておかないといけないので、なかなか大変なのではないか、と、ちょっと心配になったりしました…。

日本の家のように、ちょっとした用件ならば、玄関で応接できた方が、ずっと気が楽なのではないかと思いました…。

ドラマの中の話だけを頼りに、いろいろと言うのは、あまりにも強引で、デタラメな話だとわかってはいますが、面白いので、この際、いろいろと考えてみると、これはやはり、あちらの家では、リビングルームというのは、「外」という認識である、ということなのではないでしょうか…。

話は、以下に続きます...。
http://blogs.dion.ne.jp/k_nakama/archives/10654755.html (続きを読む)

仲摩邦彦建築設計事務所

プロフィール

仲摩邦彦建築設計事務所

ひとつひとつ丁寧に取り組んでいきたい、と考えています。

建築は、建築主であるお客様や、様々な条件・環境等の、出会いや組み合わせにより生まれるものであり、それぞれが、その機会でこその個性的なものだと考えています。 「これしかない」と納得できるようなものを...

仲摩邦彦建築設計事務所の事例

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